シリア語という言語とその歴史を、簡単に説明。あくまで分かりやすく体系化させた話なので、これが全てではありません。もっと詳細なこと、さまざまな意見は、いろんな本で勉強してください。
※日本語のサイトは、意外と情報が偏りがち。いろんな研究書を読むのをオススメします。
■言語体系
古典シリア語は、言語体系の中ではセム系言語の中の北西セム語諸派で大グループを構築した、アラム語という言葉の一方言です。
この方言はセム系言語という大きな枠組みにあるので、アラビア語やヘブライ語といった有名言語とは親戚関係にあると言えます。しかしアラビア語は南セム語から発達したもの、ヘブライ語はカナン語に属するものです。古典シリア語とアラビア語、ヘブライ語の差は、中国語の中の北京語や広東語の差よりも大きなものと言えるでしょう。
ですが、とにかくこれらセム系言語の感覚は何となく似ています。その古典シリア語をアラム語の中で体系化して示すと、次のような感じになります。
1.前期
古アラム語・・・紀元前9世紀ごろから上部メソポタミアでみられる碑文の言葉です。
帝国アラム語・・・アッシリア帝国、新バビロニア帝国、アケメ ネス朝ペルシア帝国で用いられました。
2.後期I 西アラム語群(帝国アラム語系列)
パレスティナ・ユダヤ教徒・アラム語・・・ユダヤの間で聖書の 翻訳、註解や研究に用いられた言葉。日常会話にも使われたと言われています。
サマリア・アラム語・・・モーセ五書の翻訳で知られる言葉です。
パレスティナ・キリスト教徒・アラム語・・・5世紀から8世紀に かけて、パレスティナのキリスト教徒に用いられた言葉です。
パルミュラ語&ナバテア語・・・前1世紀から後3世紀にかけて、シリア砂漠で繁栄したアラビア人の用いた言葉です。
3.後期II 東アラム語群(メソポタミア方言系列)
古典シリア語・・・1世紀以降、ウルファ(ギリシア名:エデッサ)近郊で発達した言語。このコンテンツでのテーマ言語です。
バビロニア・アラム語・・・5世紀のバビロニア・タルムードで知られる言葉です。
マンダ語・・・4世紀頃からメソポタミア下流に定住した、グノーシス要素を含むキリスト教一派のマンダ教徒が用いた言葉です。
■古典シリア語の歴史
さてさて、いよいよ古典シリア語の歴史です。古典シリア語は、上述のとおり西暦1世紀以降に姿を現しましたが、その重要な役割を果たすようになるのは、3世紀以降、キリスト教共同体の中でのことでした。それ以降、15世紀頃までは一連の歴史の流れで追うことが出来ます。
1.~西暦5世紀まで
初めはウルファ(ギリシア名:エデッサ)を中心とする北メソポタミアの知識人たちが主な担い手でしたが、徐々に北メソポタミア以外でも、キリスト教共同体で典礼用語、文学言語として使われ、そして広まっていきました。5世紀には小アジアからペルシアまでの諸教会で使用されるようになりました。
2.西暦6~7世紀
6世紀の教会は、5世紀に生じたネストリオス問題や、ゲルマン民族、フン族の移動といった諸問題から、教会の分裂が起こりました。ローマとコンスタンティノポリスの両教会の不和、そして単性論派とネストリオス主義派の決裂です。このときの単性論派とネストリオス主義派の決裂は、古典シリア語の歴史に関して言えば、大きな転機となりました。すなわち、西方シリア語と東方シリア語の誕生です。しかしこの転機は、それ以前の古典シリア語における音韻の消滅をも意味していました。
西方シリア語・・・単性論派は6世紀に、アンティオキアを中心とし、シリア正教会(別称:ヤコブ派・西方シリア教会)として発展しました。その教会はそれまでの古典シリア文字であるエストランゲロ体と異なる書体、ヤコバイト体を生み出し、従来と異なる音韻体系を発達させ、西方シリア語の体系を整えていきました。
東方シリア語・・・ネストリオス主義を掲げたクテシフォンを中心とする教会は、東方教会(別称:ネストリオス派・東方シリア教会)としてサーサーン朝治下に勢力を伸ばしました。そして、独自の文字としてネストリアン体を作り上げ、西方シリア語と異なる音韻を発達させることとなりました。その結果生まれたのが、東方シリア語です。なお、東方シリア語は西方シリア語よりも古来、つまり5世紀以前の音韻を良く保存していると考えられています。
3.西暦7~15世紀
7世紀の初頭、大きな政権交代が生じました。サーサーン朝の王権失墜、ローマのヘラクレイオス朝勃興、そしてイスラームの誕生です。中でもイスラームの勃興は古典シリア語に大きな意味を持ちました。初期イスラームは古典シリア語を、知識を供給してくれる言葉として重用したのです。しかし、イスラームの発展に伴いアラビア語が支配言語として確立すると、キリスト教徒を母体とする古典シリア語は衰退するしかありませんでした。緩やかに衰退する言葉、それが7~15世紀の古典シリア語でした。
ギリシア語文献の翻訳・・・初期のイスラームは、確固たる知的基盤を持ちませんでした。そのため、古典シリア語を用いる知識人たちが、その役割を一端を担いました。それを顕著に示す事例が、ギリシア語文献の翻訳作業です。バグダードのダール・アルヒクマにおいては、8世紀から9世紀にかけて多くのギリシアの医学書や哲学書が翻訳されたと言われています。
アラビア語発展⇔古典シリア語衰退・・・アラビア語が徐々に支配言語となるにつれ、古典シリア語の存在意義は薄れていきました。13世紀から14世紀にかけて、シリア正教会のバル・エブラーヤー、東方教会のエベド・イーショーといった偉大な著作家が活躍しましたが、それでも古典シリア語はアラビア語の勢力に巻き返すことは出来ませんでした。もはや典礼用語として以上の機能は、果たしえなくなっていたのです。
4.近現代史 - 古典語から現代語へ -
16世紀に入ると、世界は一変しました。そうです、ヨーロッパが中世という暗黒期から脱し、近代社会へと発展し始めたのです。その第一歩が、芸術や宗教の面でのルネサンスであり、世界への開放たる大航海時代でした。ヨーロッパの教会は、このルネサンスと大航海時代の潮流に乗って、全世界へ進出し始めました。
それから19世紀の植民地主義の時代には、中東はヨーロッパ列強の支配下に置かれました。このとき当然のごとく、諸教会もまたヨーロッパ列強に監視されることになりました。
こうした世界の動きは、イスラームの言語であるアラビア語の拡大によって消滅しつつあった中東の教会の典礼用語に、大きな影響を与えました。すなわち、古典シリア語の、現代シリア語としての道を切り開くことへと繋がったのです。
16~17世紀・・・16世紀、ローマ・カトリック教会は世界へと進出しました。東洋へ旅立った宣教師ザビエルは、日本においてあまりに有名でしょう。そのような宣教師団が派遣される中で、中東の諸教会がヨーロッパ世界に紹介されました。それは、文字通り中東の教会の「再発見」でした。
ローマ・カトリック教会は中東の諸教会の存在をいち早く察知し、彼らと接触を持ちました。それにより、いくつかの合同教会を持つに至りました。しかしながら、16世紀から17世紀にかけて、こうした活動が為されたにも関わらず、ヨーロッパ諸国は依然として植民地以外の観点から中東に目を向けることはありませんでした。結局、「再発見」の歴史はローマ・カトリック教会内の出来事に留まりました。
18~20世紀・・・ヨーロッパ諸国が本格的に中東の諸教会へ目を向け始めるのは、18世紀に入ってからのことです。ロシアの南下政策やイギリスの中東政策が、宣教師団を中東に派遣し、実情を調査させたのです。これに伴い、北イラクの東方教会が「アッシリア人」の名を冠してヨーロッパに紹介されることとなりました。こうしてその教会の文字である古典シリア語は広く世界に知られるようになりました。多くのオリエンタリストたちは、大量の古典シリア語を読み、彼らの歴史を著わしました。宣教師たちと中東諸教会との関係は、もはや死滅しつつあった言語を、現代文学の表現手法として望まれるまでに再生させました。現代シリア語が誕生したのです。
ですが、20世紀という「戦争の世紀」に入ると、中東の諸教会に属する人々もまた戦争の影響をこうむり、世界各地へと離散してしまいました。しかし、教会の根は枯れることはありませんでした。現代シリア語は、その母体としてのキリスト教共同体と共に、中東以外にも離散先のアメリカやオーストラリアなどで生きています。しかも、書き言葉だけでなく話し言葉としても用いられ、その根をしかと張っています。






